証 し | 滝浦 滋 牧師 |
証
し
1.はじめに この日本の国で、人が、主イエス・キリストに対する信仰を持つことは、困難です。ということは、言い換えれば、人が救われるのは、人の業によらず、た だ神さまの導きによるということが、日本ではよりはっきり見えると言う事でもあります。人が救われると言う事は、必ずどの場合でも、神の恵みのみ霊による 「奇跡」なのです。わたしがこの異教の日本の中で、まことの王であられる主イエスへの信仰を与えられ、牧師として立つようになったことの中にも、いくつも の神様の導きを見る事ができます。実は、私の家がクリスチャンとなるのには、100年程の経過があるのです。異教の日本で、一人の日本人がどのようにクリ スチャンとされたのか、証しします。 2.
私の救いにいたる神さまの導き
a.祖父の洗礼と不信仰
わたしの家族が神さまとの関わりをいただいたのは、今から、100年も前に遡ります。それは、クリスチャンとして決して名誉なはじまりではなかったと
思います。劇的な回心とか、献身的な犠牲の決心とかから、はじまったのではありません。むしろ、ほんとうに信仰者であるのかどうか、疑われるかもしれない
ような始まりでした。
わたしは日本が敗戦したのちに生まれましたが、私の幼い頃、神戸市の爆撃の焼け跡に建った粗末な家で、祖父は私たちと一緒に暮らしていました。そのこ
ろ祖父は、ごくたまに近くの長老教会の礼拝に出かけていましたが、教会員ではありませんでした。わたしは祖父の信仰に個人的に触れたことはありません。こ
のような不信仰な祖父でしたが、神さまはこの祖父を通して、私たちがクリスチャンとなる準備をして下さったのです。 b.父の神経衰弱と回心 神さまが、私の家で最初にはっきりと主イエスへの信仰を告白するものとして救って下さったのは、私の父です。父は1911年に東京で生まれました。父 の母は幼いとき先に書いたような出来事で死にました。父は、キリスト教信仰には触れていませんでしたが、大正デモクラシ−の時代に教育を受けて、自由な考 えを持つ者には育ちました。特別な秀才ではなかったので地方の山形高校に行きスキ−や馬術にはげみ、祖父の仕事の関連で東京工業大学で染色の勉強をしまし た。しかし、卒業後医者になりたくて東京大学の医学部にはいり、結局、志ならず、薬学科に属しました。大学院では漢方薬の成分を薬として抽出する研究をし て博士号を取りました。軍事訓練にでるのが嫌いで、自分で指を切ったりするようなところがあったのは、私の家の自由な気風をあらわしていると思います。政 府にも天皇にも国家神道にもしばられない自由な思いがありました。それは、祖父のアメリカの経験とキリスト教信仰との接触からくる、広い世界観が下地に あったと思います。父の男三人兄弟は、みんな理科系学部に入り、一人も軍隊に入りませんでした。
父は、東京大学医学部薬学科分析化学教室で助手をしたのち、教授の指示で大阪の武田薬品の研究所に派遣されました。私の母と結婚して兄が生まれた頃で
した。太平洋戦争が始まり、父と母は大阪と東京で別れて暮らし、父は研究所で軍事の薬品開発をさせられました。消毒用の水のないときに、無菌といわれる幼
児の尿を使う研究とか、特攻隊など航空機のパイロットが夜に短時間視力が特別に良くなる薬の開発(ただし危険な副作用があり失明の恐れもある)などもして
いたそうです。何と空しい研究でしょう。日本の敗戦は、そのような仕事をしていた父にとっても価値観の根本的崩壊であったと思います。 祖父の代から、家には少なくとも他の宗教がなくなっていたこと、戦争の敗北と共産党の圧力、そして神経衰弱になったこと、これらすべてを神さまは、父 をクリスチャンにするためにお用いくださいました。父が救われたのは40才ごろでした。会社は向かないので推薦されて大阪大学医学部教授となり、大阪大学 に薬学部を作る仕事に変わるころでした。厳格に論文を指導し、問題のある学生の世話をし、決して目立つ地位には就かず、教授室をKGK聖書研究会に提供奉 仕した人です。しかし、一貫した聖書的世界観や永遠の命と天国についての知識は、科学者であったことが邪魔してはっきりしていませんでした。そののち教会 の長老となりましたが、教理を確信する人ではありませんでした。ただ素朴な神様への信仰と主イエスへの信頼が死ぬまで与えられていた事を私は主に感謝して います。 c.母の死と私の召命
私自身は2才のころから、父が通いはじめた神戸市の住吉教会という長老教会の日曜学校に通いました。微かな記憶に、幼稚科の聖書の話しを先生の足を見
ながらテ−ブルの下で聞いた覚えがありますので、おとなしい子だったとはいえないようです。しかし、神さまは幼い私の心をあわれんで下さって、良く遅刻し
ていた私が小学校2年生のとき、教会に心がひかれ、絶対教会だけは休まないという決心が与えられたのです。忠実な分級の先生の愛の指導もありました。そし
て、小学校2年生から6年生まで、日曜学校を皆勤しました。まだ貧しくて、食べ物も豊かでない頃でしたが、戦後のキリスト教ブ−ムで、爆撃の焼け跡にアメ
リカ軍のジュラルミンの兵舎を貰ってきて建てた教会堂は、最近と違って、子供で一杯でした。そこの日曜学校で聖書の基礎的な知識をいただきました。 その11月のある晩、私が夜中に目覚めると赤々と電気がついており、横に母が寝ていて、お医者さんがきていました。ただならない雰囲気なので寝たふり をして薄目を開けてみていると、お医者さんが母の鼻に綿を詰め始めたのです。そのころ日本の家にはまだお風呂が無い所が多く、みんな町の公衆浴場に通って いました。母はその晩私が寝てからお風呂に入りにいって、浴槽で心臓麻痺を起こして亡くなったのです。私は、朝まで、寝たふりをしていました。私が起きる と父が困ると感じたからです。その夜明けは私にとって忘れられないものになりました。寝たふりをしながら私は神さまに祈りました。なぜ母をおとりになった のかと。祈るうちに、これからは、神さまご自身が私を愛して守って下さるという、確信が心を包みました。その朝は、私にとって、神の臨在を覚える荘厳な朝 でした。私の心がこのように導かれるために、神さまが幼いときから準備して下さっていたことを覚え、感謝致します。 母の葬儀は、教会で行われました。それも小学生の私にとって永遠の命を学んだ時でした。母が天国にいったのかどうかを私は知ろうとしない、と決心しま した。それは、神さまのご主権の内に隠されていることです。人間的につらくても、私たちはご主権の前には沈黙しなければなりません。ただ母が求道していた ので希望はあります。確かなことは、主が母の死を用いて、ご自身のみ力とご臨在とご主権とをはっきり示し、私を主の前に従わせ、私の信仰を確立して下さっ たことです。それは私の11才の時のことでした。母の死で、その代わりとして、私は主ご自身にお会いしたと信じています。母の死の現実を前に、私の心は、 不信仰の罪を悔い改め、主をただ受け入れました。そして、主の前に平伏して、苦しさ、空しさ、淋しさのない、主の平和をいただきました。 中学に入り、聖書を自分で読むようになり、二年生のとき牧師として生涯献身する願いをいただきました。若い時、自分の罪を深く覚えるごとに、罪からの あがないの恵みの知識が深まりました。しかし、神さまとそのみこころを、今もとてもまだ十分に知り尽くしたとはいえません。神学校で教える立場になっても なお、聖書から学び続けています。聖書で、神様ご自身を知る事、イエスさまの救いの仕組みを知る事は、本当の喜びです。なお私がいた住吉教会は、戦前日本 軍国主義に協力した、旧日本基督教会の神戸における中心的な教会の一つで、神戸中央神学校系の長老派ではありましたけれど、牧師は戦時中、「橿原神宮での 紀元節の天皇礼拝は聖書の真の神さまへの礼拝と同様だ」と混同した話をしたり、「天皇に滅私奉公することこそ、キリスト者の十字架の道だ」と説教したりし た人で、戦後明白な悔い改めもなく、伝道が続けられており、今から思えば、キリスト教会として誇れるものではなかったのです。しかし、神さまは、私をこの 堕落した教会の中で訓練なさいました。やがて、改革派信仰を持った後任牧師が来ると、この教会は、10年以上にわたる大混乱に陥り、最後には二つに分裂し てしまいます。 そのなかで、大学生・神学生時代を過ごした私は、分裂時日本キリスト教会を離れて単立教会となったグル−プに属し、神戸改革派神学校を経て、今の、よ り聖書信仰と改革派信仰に忠実で、より歴史的に長老主義の真理に基づいている教派である、改革長老教会に導かれました。さらに米国のジャクソン改革派神学 校で訓練を受ける事ができました。 このように、神さまは、祖父の不真実な洗礼も、父の神経衰弱(ノイロ−ゼ)も、母の心臓麻痺による死も、お用いになって、私をこの異教の国で信じる者 として救い、伝道者として立てて下さいました。神さまのご主権と、ご栄光とを、ただおそれ賛えます。 3.天皇の国でキリストを王とする者となる準備
改革長老教会との接触は三つありました。父が英語の会話を学ぶためスピア先生のカベナンタ−書店での集会に参加していたこと、私がカベナンタ−書店に
頻繁に通っていたこと、改革長老教会からきていた三輪修男先生が神学校の後輩であったことです。しかし、直接のきっかけは、神学校のチャペルに北米改革長
老教会外国伝道局のヘニング牧師が来られて短い奨励をされたことでした。当時、神中心の信仰と、キリストを信じることによる救いの関係を考え続けていた私
の心に、「キリストの王権」という、改革派神学校では聞いたことがないスコットランド長老主義の教えは、一切の真理を結び付ける大切な教えに聞こえまし
た。このメッセ−ジをきっかけに、私は改革長老教会の夏期伝道に志願しました。まわりは私の意図を理解しませんでした。しかしその選択は主の恵みであり正
しかったと今、信じています。教会の目に見える小ささや不十分に目を取られる気持ちはありませんでした。 日本で「キリストの王権」に立つ牧者となる。この重大な意義を、私は未熟にもまだ悟っていませんでした。改革長老教会の牧師となることは、日本で本当 に重大な教えの責任を持つことなのです。なにせ、日本はまだ50年と少し前までは、政府の特別警察が牧師を捕らえて、「キリストと天皇とどちらが神か。ど ちらが王か。」と真剣に問うような国だったのですから。そして今もその社会思想構造は根本的には変わっていないのですから。 実は、私の家内も、不思議な神さまのお導きで、まったくの異教徒の家庭から救われたものなのです。家内の父母は、日本の南の島の出身で、そこで幼い 頃、宣教師がこられて、教会学校がありました。二人とも信仰を持ちませんでしたが、母は賛美をいくつも覚えて家事の間に、よく口ずさみましたし、父は家内 に教会にいくように勧めました。それらに励まされ、家内は中学生の頃しばらく教会に通い、高校のときミッションスク−ルの聖書の授業で深い関心を持ちまし た。神さまは家内が高校を出てから後も、クリスチャンの友をお与え下さり、上の学校をでてから、キリスト教大学へと就職をお導きになりました。そこで家内 は、私が行っていた教会と同じ教会で求道するようになり、洗礼に導かれました。家内の父は、家内が洗礼を受け熱心になると反対しましたが、実はその父が神 様が家内を教会へとお導きになるための器として初めに備えられた人だったわけです。すべては神さまの御霊の業によるのであり、神様のなさることは思いを越 えて不思議です。 家内と私とは、神様の導きで出会い、結婚して、六人の子供に恵まれました。私の家族がしてきたことは、家庭礼拝や、安息日の厳守、偶像の拒否、教会へ の出席など、基本的な幾つかの戦いに過ぎず、とても神様のみこころに十分従ったなどとは言えるものではありませんが、神さまは、私たちのわずかな忠実を祝 福してくださり、子供達に信仰を下さいました。11才の末娘はまだですが、上の5人は皆、信仰告白をして、礼拝を遵守しつつそれぞれの神学校・大学・高校 で学びをしています。ただ感謝です。今の私たちの切なる祈りは、信徒が少ない日本で、子供たち全てが、信仰の家庭を持つことです。 私自身も、牧師になってから、六人目の子供が生まれた直後に、試練に会いました。首の中の脊椎の骨の中の脊髄神経に大きな腫瘍ができたのです。神さま は頭と首の後ろを断ち割る大手術を成功させて下さり、私はどこにも麻痺が残らないまでに癒されました。神さまはご自身のご栄光のため、私のいのちを今少し 延ばして、用いてくださっています。わたしは、どんな災いの中でも、神さまのご計画と私たちへの善意を信じます。 その5年後に、阪神大震災がありました。教会の建物は守られましたが、大災害の中で再び多くの神さまの導きと助けを経験しました。これらの経験を通し て、信仰者としても、信仰の家族としても、私たちは神さまにより深く訓練されました。 このように、長年にわたる多くの出来事の経過の積み重なりを通して、神さまはこの異教の国でもみわざをなしてくださり、私たちの中でお働き下さって、 天皇の国においても天皇にではなく主イエス・キリストの王権に忠実なご自分の民として私と私の家族をお立て下さいました。主のみ名とご栄光を賛美致しま す。
どうか皆さんも日本のクリスチャンの証しの戦いのために祈ってください。日本の天皇崇拝と国家神道など危険な国家主義が、最近の国旗国家法による新国
民儀礼の学校教育への強制で、復活してきています。私たちの「主イエス・キリストにあくまで王として従う忠誠」が問われるときがこれからふえるでしょう。
どうか私たちの戦いを外から見守り、祈りによって力強く支えてください。主にあってお願いします。日本でキリストの証しが立てられるために、神さまは私の
家をここまで準備されたと信じます。 |