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キリスト王権論
の教理は中心的に存在する事
カルバンとブー
ツァーとサイミントンは基本的に同じキリスト王権論であること。(アウグスチヌスとウイクリフにも言及)三者ともに王権との戦いの中で生ま
れてきたこと。カルバンにまとまっては見られないのは、彼のメンターであったブーツァーに十分な著作があったからもある。キリスト王権論は、具体的な教会
の権威が王権に脅かされるところで、それを越えた幻を持つために特に営まれた事。いずれも聖書そのものから生まれてきたこと。
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キリスト王権論無視
の理由
現代に至るプロテスタントで祭司論と預言者論に比べ、キリスト王権論が知られない理由は、実際にはプロテスタントの基礎としてはっきり生まれていたのに、
その具体化が難しいので、忘却されたためであること。17世紀の神学者たちも、その時代の波に翻弄されて、王権論についての著述にバランスを欠くものが多
かったといえる。
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サイミントンの高い
価値
サイミントンが一番良く包括的にまとめているといえること。ブーツァーは王の結婚の弁護に引っ張られて、バランスを欠いている。サイミントンは
UNITED SOCIETIESの子孫でその記録をよく消化し体系化する形で、Messiah the
Princeをまとめており、あたかも17世紀に自分を置くようにして書いている。スコットランドの風土がそれを生み出した。
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仲保者的王権の説明
(ピリピ2:5f)
仲保者的王国とは、神さまが人の魂を救う事を決心され折に必然的となった事柄である。つまり、キリストは祭司としての十字架の死と預言者としてのその宣言
だけでは、人を救う事に十分でなかったのだ。その王国(王権)において、人々の心に救いの影響を及ぼして人々を従順ならしめること、また、その家庭も社会
も国家にも救いを当てはめていく事までできてはじめて、本当に人は救われたといえる。このように救い主である仲保者であるために、王権は必然であったの
だ。このために、創造主としての万物支配の王権とは区別されて、この人類の行く末のために、一切がキリストの手にゆだねられたのが、キリストの王権・仲保
者的王権である。そのもとで、実際のこの世のすべての権威と王権が存在する。すなわち、キリストによる贖いの完全な実現のために用いられるべく、一切の権
威はキリストにゆだねられたのである。