2000年10月8日 礼拝説教

「 教 会 生 活 の 大 切 さ」
テサロニケ人への手紙第一 5:12〜22

[説教前の詩篇瞑想:84A   神の宮・礼拝の場・教会について
 神のみ住まいに住む幸い。涙の谷も泉に変える歩みを生む、砦・力の源・憩の場]

序 苦難の中にある信徒にとって、教会こそなくてはならない。
  パウロは迫害の下にあるテサロニケの聖徒に、手紙の最後に何を勧めるのか?
  彼は、彼らに、自分たちの教会形成への努力を勧め、指導している。

  苦難に会うときにも、聖霊による教会こそ、人生の戦いを勝利まで支える。

1. あ な た が 教 会 を 形 成 せ よ

  教会は個人の信仰の便宜のためにあるのではない。
  信仰とは個人的なものに終わるものではありえない。
  教会はあなたの信仰生活のための一つの手段ではない。
  教会はあなたにクリスチャンとして課せられた単なる義務でもない。
  教会は、本質的にあなたの信仰に絶対必要である。
  教会はあなたの人生の足場となる土台なのだ。
  教会なしには、あなたは現実の人生に置いて信徒としての足場を失う。

  教会はときに弱い。また欠けがある。我々日本の小さな教会は欠けが目立つ。
  しかし、韓国などの巨大教会にも欠けや弱さがある。
  それでも教会は、必ず信仰者になくてはならないことは変わらない。
  教会は、キリストを頭とする、世界をおおう身体なのである。
  あなたはキリストにあるものであるなら、必ずその一部なのである。

  もうあなたは一人ではない。あなたは救われた神の民の群れの一人である。
  もうあなたは以前のあなたでもない。あなたは新しい人類の一人だ。
  もうあなたは単なる日本人でもない。あなたは天国の民、この世の寄留者だ。
  だからもうあなたにとって、個人主義は人生を正しく歩むための足場にならない。
  家庭・職場・国家・社会だけでは、あなたの人生の足場としては足りない。
  もうあなたは信徒なので、神の民の契約の家・教会がなくては人生は歩めない。

  あなたには自分の信仰の場、神様の臨在に触れ、平伏し礼拝する場、契約の民
  として救いの恵みに毎週正式に応答する場、自分の教会が要る。

  その自分の教会は、自ら築くものである。築く行為自体が救いへの感謝の応答だ。
  自らの教会を築くことがなくては、あなたの信仰はまだ本格的に応答し始めない。
  自らの教会を築くことがなくては、あなたの信仰は育たず鍛えられず根付かない。
  だからあなたは手ずから自分のための教会を築かなければならない。
  これは、今日の箇所で明確に聖書がわたしたちに求めていることである。

  ここでパウロは「あなたがたにお願いする。..勧める。」と言う。
  そして、教会を形成していく具体的な指示を述べていっている。
  「あなたがたに」と繰り返されている。牧師たちだけに語っていない。

  ”聖職者”が教会を建てるのではないのだ。それでは聖霊の宮となれない。
  信徒が俗なるものだと悪びれて、み言葉にぶら下がることは許されない。
  教会内の聖俗二元論は、いかなる意味でも教会に聖霊が満ち溢れることを妨げる。
  教会の全ての者は、キリストの贖いゆえに「聖徒」なのだ!
  自らを、俗と悪びれて、甘やかすな。主の十字架の血潮できよめられたのに!
  我々は当然不十分である。しかし主の恵みに答え、全員が教会建設に従事せよ。

  教会を立てるのは牧師長老だけではない。あなたがたである。
  教会を立てるわざこそ、あなた自身の益である。信仰が身に着く応答だ。

  鳥は巣を自分で作る。あなたも自分の教会を作らねばならない。
  他の鳥の作った巣に、他の鳥を追い出して住むような鳥となってはならない。
  自分の信仰の巣である教会を、自分で作れ。

  宣教師はなぜ働きを日本人に譲って去るのか? 効果的働きでも続けないのか?
  それは、教会があなた方の作ったもの、あなた方自身のものであるべきだから。
  あなたがたの信仰が本当に身に着き、根着き、教会に支えられて一人前と
  なって証しするためである。自給・自治・自伝は宣教の大原則なのだ。
  こうしてあなたの信仰は、苦難の中にあってしっかり支える砦に堅く根付く。

  あなたの信仰が本物に成長するために、教会形成に労苦する必要を悟れ。

  ところで、自分の願いに従って自分が王となる教会を建てるのならやさしい。
  ところが、私達は、共にみ言葉に従う、王なる神様の家を建てるのである。
  そしてみ言葉により、その家は、恐れ多くも、神様のご臨在に触れる場となる。
  当然そこは、力・感動・慰め・平安・憩い・癒し・喜び・祝福の源がある。
  人生において、教会形成こそ真の報いのあるわざであるのは当然のことだ。

  仕事も何時かは終わる。家族も何時かは召される。人は多くの場合一人になる。
  しかし、その時にもあなたは教会の中にいる。
  あなたがたが形成した主の宮、あなたがたの教会は、天国まであなたを支える。

  あなたが本当にこの世に残す価値があるもの。それは「教会」ではないのか。




2. ど の よ う に 教 会 を 形 成 す る の か?

パウロは、では、どのように教会を形成すべきか、わかりやすく具体的に指導する。

1)み言葉を立てる事による教会形成
a.「認めなさい」
  まずみ言葉の権威を認めることである。
  あなたが、み言葉を立てる態度を取ることが、教会を形成する第一である。
  たとえ牧者が若くとも、みことばの権威を真実に認めると、教会が形成される。
  能力や賜物が劣っているからといって、み言葉の権威を軽んじるな。
  「み言葉に労苦し、主にあって指導し、訓戒しているものを認めよ。」

  訓練や戒めを向けてくるものを、普通、人は認めたくない。
  できるだけ避けたいし、避けられないとなんとか批判して逃れようとする。
  わたしたち罪人の常である。しかし、たとえば教会の戒規を受けたものが、
  忠実にみ言葉の権威を認めて集いつづけることは、極めて難しいが、その様な
  ことがあるなら、その罪を犯したものこそ、みことばの権威を立てることで
  教会を形成しているのだ。

  信仰に入るとき、ある人格に打たれて入ることは殆どの場合に見られる。
  これは感謝で大切な証しである。しかし、「人格」を全てと考えてはならない。
  真に教会を立てのは、第一番としては、すばらしい人格ではなくみ言葉だ。
  この事実を否定するような、極端な人格礼讃はあやまりであり、不信仰である。
  立派な人格はみ言葉と会い待つときのみ、素晴らしい実りに結び付く。
  立派な人格だけでみ言葉の権威なしでは、教会は歪んだ一時的な繁栄で終わる。
  人の人格よりむしろ、まず、み言葉の権威を認めることが、教会を立てる。

  あなたが、み言葉を立てる態度をとらずして、誰があなたの教会を立てるのか。
  みことばを認めよ!

b.[尊敬を払いなさい」
  では、もし「認める」ときは、どの様に認めるのか。それが次に説明されている。

  「認める」のは牧者にも弱さや欠けがあるが、である。「務めのゆえに」である。
  だから、この欠けのある器を「認める」には、当然「愛をもって」が必要となる
  牧師自身として言うことを少し憚るが、確かに、愛していただかないと立てない。

  次の「尊敬」というのは、み言葉の権威ゆえに牧者に敬意を払えと言う事で、
  そのみ言葉に対する敬意が、通常の常識を越えてでも払われるべきだと
  言う事を「深い」と訳している。これは「通常を越えて」という意味の言葉だ。

c.「平和を保ちなさい」
  では次に、なにを目指して「みことばを認める」のか。

  地上の教会は決して完全にはなれない。しかし、常にみこころの完全を目指す
  ことをやめては、「ふたごころ」の教会になる。これこそが悪い教会である。
  ヤコブ1:5−8

  できないことは仕方がない。しかし、しかたがないからできないで良いと
  居直ることは許されない。できないことを認めつつも日々謙遜に悔い改め
  ねばならない。この真実な謙遜さがあるかどうかが、教会の真実の鍵である。
 (この点をカルバンの綱要の3−6で丁寧に学ぶことはとても大切だ。)

  そのためには、み言葉の権威の秩序が教会に立つことが不可欠である。
  教会としても、どの家庭にも、個人にも、深刻な問題は罪人だから必ずある。
  それを、野放しにしては、必ず教会の平和は破壊される。教会の平和は
  保たれなければならないが、それは、あなたがたがみ言葉を立てることに
  かかっているのだ。
2)共同牧会の交わりによる教会形成

  次に教会を立てる道として示されているのは、共同牧会の形成による
  教会形成の道である。これは、教会としての真の交わりの質を生み出す。

a.牧会はここで牧師だけに命じられておらず、全ての聖徒に勧告されている。

  教会員は、お客さんではない。患者さんでもない。会費を払っているので
  世話してもらう権利がある会員制クラブの会員でもない。同じ船に乗って
  同じ務めに船出した仲間である。いやむしろ家族である。牧師もその一人だ。

  仲間でも、傷をなめあってただ慰め合っているだけの消極的交わりではない。
  積極的に戒め合い、励まし合い、助け合い生き抜く、現実的な交わりである。

  私達の教会員同志が、みことばに従うようにどれだけお互いを叱っているか。
  まだまだ他人行儀で、お世辞をいうか、冷ややかに沈黙するか、せいぜい裏から
  辛口を流すぐらいしかできていないのではないか。「共同牧会」による本当の
  教会の交わりまでまだまだ遠い。しかし私たちはそこに到達したい。折角の
  主の教会なのだから、その祝福の高みを経験したいではないか。もっと真実に
  もっと聖書に真剣に、本気にみんなでならねばならないのではないか。
  互いに競って端の席に座り、傍観者であることを志すようでは、教会を作れるか。
  教会を作る気が本当にあるのか。それともそんな事は牧師の仕事で関係ないか。
  ここのみ言葉を読めば、それでは済まないことが分かる。

  教会には必ず「気ままなもの」がいる。「小心なもの」もいる。「弱いもの」
  もいる。何かしようとすると、気がのらないとかめんどうだとか、理由になら
  ない理由が妨げになる。敵がいないのにいるいると触れ回って、みんなを萎縮
  させるものがまた出てくる。「追うものもないのに逃げる」とみ言葉にある
  通りだ。また、弱い現状からできない、弱いものをもって全ての計画を規制
  せよと要求する消極的な考えも、必ず現れる。いや、人のせいにしているが、
  私はどうなのか。私の中にこの三つはいつも必ずいる。私達は絶えずこれら
  と戦って信仰生活をしている。私自身が「気ままなもの」「小心なもの」
  「弱いもの」だ! それをお互いが、ときに応じて攻守所を変えて牧会しあう
  のが教会である。一人の牧師が常に戒め役、教会員はいつも叱られ役ではない。
  互いに「み言葉によって」牧会し合わねば本当の教会になれない。レベルを上げよ!
  あなたもみ言葉に立って人を叱ってみよ!そうすれば自分も気儘にできなくなる。

  (1)「気儘なもの」、これは、怠け者、怠慢なもの。しかし、勉強や仕事を
  サボるとか、片付けや掃除をしないとかいうことでは必ずしも無い。何でも
  きちんとできている人も、同じ様に気儘なものになりうる。この気儘さの
  本質は、み言葉(例えば十戒)に従うことを怠けると言う事である。そういう
  意味では、人間はすべて怠け者ではないか。安息日を守ることを怠けるもの、
  偶像礼拝と戦うことを怠けるもの、侮辱が横行していても声を上げて反対
  することを怠けるもの。嘘をつくことにすこしも良心のブレ−キがかからない
  もの。差別や悪口を言う事や人格攻撃を自分がしていることを正当化するもの。
  結婚外の異性関係において潔癖でなくてよい余地があると思っているもの。
  これらは、いくら家が綺麗にかたづいており、仕事がきちんとなされていても、
  聖書的には本質的に「気儘なもの」だ。

  お互いである「気儘なもの」を、どう互いに牧会しあえば良いのか。
  「インストラスタ−として手とり足取りどうすればみ言葉を守れるか指導せよ」
  というのが、「戒めよ」と訳されている言葉の本意である。もちろんその上
  で教えなければならない。さらに常に適切に「警告」を発しなければならないと
  言う事も含む。「戒めよ」というのは、高飛車にどなりつけよということ
  でなく、深刻な問題と認識しつつ、冷静に具体的に教えていき、矯正していき、
  警告を発していき、そうであってはならないという戒めを、身に染みて身体で
  身に着けさせるという、共同牧会の心構えと手順とを示している。
  それには、みことばの戒めを目指すのだという共同の祈りと堅い決意がいる。

  (2)「小心なもの」、これは、オリゴプシュク−スが原語。オリゴとは、
  小さい、細かいという意味。粉砕された破片のようになった心。
  プシュケ−は、いのち、また、たましいと訳せる。いのちが縮んでしまって
  いる。たましいが縮み上がっている。疲れからか、何かを恐れてか、
  誰かに縛られてか? だから辞書には、この言葉は、失望したもの、心が
  気を失って屑折れたもの、というような説明がある。誰でも人間なら経験が
  あるだろう。

  このようにお互いが「小心なもの」であるとき、どう牧会しあえばよいのか。
  「励ませ」という訳は、ちょっとよくない。ここは普通の励ますという言葉の
  原語が使われていない。慰める、辛さを和らげることをする、応援になること
  をして元気づける、というのが真意である。

  失望しているもの、落ち込んでいるもの、特に鬱のものを励ますことが最悪
  であることは、カウンセリングの常識だ。それは、絶望している相手を
  「自分で頑張れ」と突き放すこと。慰めるどころか、暗に「私はあなたみたい
  ではない」と言外に臭わせて、相手の失意につけこんで自分が安心する、
  愛と正反対のことである。典型的偽善だ。
  本当に落ち込んだ人には、慇懃に励ましをいうぐらいだったら、
  ほっぺたの一つでも叩いて叱ったほうが、ずっと愛の行為ではないか。
  また、その人の前で、黙って立っているだけのほうが、まだ少しは助けになる。
  言わねばならぬという強迫観念に打ち勝つ勇気を、相手への愛から持つべきだ。

  むしろ、ここで「励ませ」と訳されている言葉は、確かに正確に意味を限定
  すれば励ませでもいいのだろうが、むしろ、慰める、辛さを和らげることをする、
  応援になることをして元気づける、なのだから、まさにそのように具体的に
  その人が少しでも楽になれることを手伝うことが、小心ものへの牧会なのだ。
  たとえば、なにを言わないでも、一杯の暖かい飲み物が助かる。具体的な
  ちょっとした用事の手伝いが心を支える。このように心が小さくなって
  しまっているものは、何気なく、しかし具体的に支えられねばならない。
  言葉のない行いを通しての語り掛けが有効なのだ。

  ただし、これと「戒める」こととを普通両方同時に求められることが多いから、
  適切なバランスの知恵を、常に祈り求めなければならない

  (3)「弱いもの」、これはストレ−トに、病気のもの、具合の悪いもののこと。
  そのままに、病気であったり、怪我をしたり、体調を崩したり、また精神的な
  理由で弱ったりしているもののことだ。これこそ、誰でもなりうることである。

  この「弱いもの」への牧会は互いにどうすべきか。これは、またストレ−トに
  「助けなさい」と言われている。これほど単純なことも珍しい。
  しかし、原語を見ると、もっと深い意味が見えてくる。
  「助ける」だけでは十分でなく、「忠誠を果たす」「堅く抱き止める」という
  ような意味なのだ。

  つまり、弱い人、病気の人が、王様で、こちらが家来でもあるかのように、
  いったん奉仕の行為に入ったからには、ロ−ヤルな忠誠を尽くす気持ちで
  向かえと言う事だ。

  また、がっしりと抱き留めて逃げない、揺るがないことが、弱い人を助けるとき
  大切な姿勢だということである。しっかり受け止められるときに受け止めよ。
  受け止められそうにないときは、無理をせず暫く身をひいて、こちらの用意が
  できるまで、余裕を持つことも大切だと言うことになる。

b.このような共同牧会によって、教会の交わりは、主にあるお互いの変化の力と
  祝福を、共に体験する。いやしを体験するのだ。

  しかし、ことは戦いである。簡単でない。訓練もいる。経験も役に立つ。
  これらの問題を、お互いに見抜いて、牧会し合うことで、みことばに立つ信仰を
  支えあい、助け合うのである。
  ただ、戦いであるので、さまざまな攻撃を受けることは避けられない。
  
  その攻撃を受けたとき、被害ぞ最小限に止めて、教会形成の積極的な働きを
  極力中断させないようにする知恵は何か。

  それは、「悪に悪で報いない」こと。教会の中にすら悪が満ちているのが現実
  なので、すこしでも「お互いにいつも善を行うこと」をこころがけること。
  さらに「教会の外の人」にも、どう思われているときも、何をされたときにも
  「善を行うこと」を、心に決めて対処していくこと。この三つである。

  折角、共同牧会で形成した教会の交わりも、一瞬の戦いで破壊されることがある。
  そのために、互いの心にこのような防火壁を設置しておかねばならない。

c.そして、教会形成を防御するための、だめおしの知恵として言われていることが、
  「寛容であれ」ということばである。「寛容」という日本語では、間違いでは
  なくても、ずいぶん意味がぶれる危険がある。これは、忍耐深く、粘り強く
  待つことである。何にでもいいよいいよと言う態度の事でない。不当な仕打ちを
  うけても、正当な怒りを控える点において相手に対して寛容に、耐えぬくという
  意味だ。さらにこの原語をみると、マクロとシュミアとのくみあわせだ。マクロ
  は遠くから離れて見ると言う意味であり、シュミアは怒りなど、緊張した情緒や
  感情を現す言葉だ。だから、感情や怒りを遠くに離して見よということで、
  そこから、忍耐する、不当な相手に対して寛容であるという意味が出る。

  教会を形成するときの、耐えず必要な知恵は、忍耐して祈って待つことだ。
  特に、感情が求めても、それと距離を置いて、直ちには切れないことである。
  私達は戦ってはいるが、建設しているのであって、破壊しているのではない。
結語
このような教会の形成の共同作業は、あなたの信仰にとって肝要である。
そして、教会形成の奥義は、聖霊の導きが満ち溢れることである。
その点に、み言葉は進んでいく。次回、教会形成の奥義、聖霊による交わり
について聴こう。そして次回は、「いつも喜んでいなさい。たえず祈りなさい。
すべてのことについて感謝しなさい。」というみことばに至る。
それが「御霊を消さない」道、本当の教会形成の実際的かつ本質的な鍵なのである。

今日のみ言葉が、あなたの教会形成のわざを、確実に前進させるように祈る。
あなたが、み言葉を立て、共同牧会し、御霊によって交わるとき、教会が形成される。
そして、あなたがこのような教会形成を実践することで、あなたの信仰の人生は
必ずゆたかに確立される。あなたはこの祝福を体験せずに人生を過ごしてよいのか
さあ、教会を形成せよ!
           
「万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。
 山に登り、木を運んできて、宮を立てよ!
 そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現そう。
 主は仰せられる。」      ハガイ書1:7−8