献身の奥義としての主の祈りの結語

「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」という主の祈りの結語が後代の付加
であることは、現在では聖書霊感信仰の有無にかかわらず、認められている事実です。
しかしイエスさまによるのでないこの部分を、偽物だとして祈らない教会を知りません
。なぜでしょう。伝統こそ教会の実践規範だとでもいうのでしょうか。教会の実践は、
教理・政治・礼拝すべて、聖書のみを規範としなくてはなりません。神の言葉の命令に
もとづかない実践を、教会の伝統・宣教の便宜・会衆の欲求によって、神の教会の中で
正当化してはなりません。教会は人のためでなく、神の所有の集会だからです。
実は、聖書的根拠があるからこそ、私たちはこの部分を今も唱えているのです。

この主の祈りへの付加は、5−6世紀ではほんの2例ですが、8−9世紀になるとよく
福音書写本に現れます。古い外国語訳に頻繁に見られますが、教父には見られません。
4世紀以前の最古の写本には皆無です。ところが1世紀の教会の様子を伝える「ディダ
ケー」には、聖餐式後の感謝の祈りのなかに、「み国・力・栄光」が出てきます。
聖書協会連合編のテキスト解説では、この付加を、教会の礼拝のなかで主の祈りと共に
唱えられた祈りを写字生が混入したものと見ており、歴代志第一29:11のダビデの
祈りの「力・栄光・御国」が混入したとしています。カルバンのジュネーブ教会問答や
17世紀のウエストミンスター大小教理問答も、主の祈りのこの付加を、歴代志第一
29:11この聖句の文脈に根拠を置いて解説しているようにみえます。

この歴代志第一29:11は、ダビデが自分の子ソロモンの神殿建設のために資財を準
備したとき捧げた祈りです。それが、捕囚からの帰還の時代に、神殿再建・礼拝復興を
励ますため文書化されて旧約聖書に残り、初代教会を建設する時もその祈りが主の祈り
と共に祈られ、21世紀にこの地の果てで主の教会を建設する私たちも、祈っているわ
けです。
この祈りは、主の宮を建てるわざのために準備する心を祈っています。
ダビデの祈りの概略は次のとおりです。「主がお建てにならなければ主の宮は建ちません。
私たちは喜んで捧げて備える事ができたことを感謝しますが、それも、すべてあなたから
出たものです。主よ、どうか御民の奉仕の心を守り、ソロモンの心をしっかりとあなたに
むけさせて、主の宮建設を全うさせてください。」この、「すべてあなたから出たもの
です」が、「力も、栄光も、国もすべて、更に心自体もあなたから」と説明され、
ヘブル語らしい並行句で繰り返されて、後に主の祈りの結語を生む11節ができている
わけです。
この主の宮建設の心、そのために喜んで捧げる心は、「力も栄光も国も、すべて主から
来、主によって存在し、主のためだ」という確信・視野・目標を持つ信仰なのです。
そこから神中心・主を証しする自由・主に従う勇気が湧きます。奉仕と献身の奥義です。
初代教会以来、神の民は教会として主の祈りを祈る度に、この結語で奉仕と献身の奥義を
唱えています。これは真に聖書的な習慣なので、今後も続いて良いのです。

キリスト者学生一人一人を、教会建設に働く日のために準備するのがKGKならば、
KGKの心はまさにこの主の祈りの結語の心といえないでしょうか。KGKは教会が
世と接する外延にあって、キリスト者の若者に提供する準備の場です。「大学」という
この世の一隅で、主を証して生き、世においてなお王なるキリストに仕える訓練を受け
る場です。KGKは、教会が世に証しを打ちたてていく伝道の最前線の一つであり、
若者の世での証しの生活訓練の場だからこそ、主の祈りの結語の、献身の奥義の場なの
です。
「主権と光栄と国が与えられ」た方(ダニエル7:14)に仕える備えの場なのです。

(関西地区キリスト者学生会協力会ニュース2002/4掲載)