聖書における平和
改革長老岡本契約教会牧師
神戸神学館代表
瀧浦 滋
一 聖書における「平和」の語意
「平和」、は旧約聖書のヘブル語では有名な「シャローム」という言葉です
が、これはもともと「良い幸いなくらし」という実際的な意味です。ですか
ら挨拶に使われるのです。そこから、この語は旧約では、神さまの創造時の
人間への思い、ひいては罪人の救われた状態、恵みの契約が個人の心・人生
・家庭・国家・世界に生み出す現実的実りを表しました。ノアの契約で神は
堕落した人類に、滅亡ではなく、「シャローム」を再び目指す、いわば世界
をリセットするみ心を啓示されました。
「平和」の古典ギリシャ語「エイレーネー」は、「戦いの間奏」といった休
息の状態を表す言葉で、争わない態度とか関係といった意味は、本来はあり
ません。祝福の来る前提となる静穏な状態のことを言いました。
そして旧約聖書のギリシャ語七十人訳をへて両者が一つの意味の世界になり
ます。前者の「幸せ」という素朴な意味が、例えば「敵意のないこと、戦い
のないこと」という歴史上の対立の文脈に立つ意味として定着し、後者はラ
ビ文書や黙示文学とも呼応して、新約では「人と人」さらに「神と人」の敵
意や戦いのない関係や態度、とくにその終末的完成を表す意味になりました。
そして新約聖書では「エイレーネー」つまり「平和」は、まず主に救われた
人生の満ちあふれる祝福を表し、すでに主にあって教会とその民に実現しつ
つあり、終末に完全な主の勝利によって実現する、救われた世界の状態を表
すのです(ルカ二・一四)。ですから新改訳は実に多様な意味の広がりに訳
さざるを得なかったのです。(平和・平安・無事・安心・安全・安けさ・安
らかさ・和解・穏やかさ。)日本語の「平和」の意味は狭すぎ、特に「シャ
ローム」的意味合いが弱いのです。
創造主は被造物に対し「平和」の神であられ、神の契約の実りは「平和」で
あり、キリストは「平和」をもたらされる主であられ、私たちは「平和」の
王国のため、「平和」を生むべく救われた(マタイ五・九)のです。聖書は
平和で始まり、平和で終わっています。
二 新約聖書における「平和」の展開
イエス・キリストは、平和の契約を真に成就する方であり、敵意消失の状態
(エペソ二・一四)、幸せの源の状態に私たちを入れてくださいました(コ
ロサイ一・二〇)。神へのそむきも罪の呪いも争いも消え、神にある「平和」
すなわち豊かで良い幸せが来ます。
福音書ではキリストによるこの平和の到来が宣言され、それが私たちに与え
られることが、「安心して(エイレーネー)行きなさい」(マルコ五・三四、
マタイ一〇・一三)とか「平安(エイレーネー)があるように」(ヨハネ一
〇・二六)という言葉で繰り返し強調されます。またローマ書では、特にパ
ウロは「平和」のみ国の宣教のために働く者として語っています(一六・二
〇)。コリント書では家庭・教会・宣教すべてにおいて「平和」が基本であ
ることが語られます(二コリント一三・一一)。エペソ書ではこの「平和」
の母体としての教会が示されます(二・一五、四・三)。また獄中書簡には
キリスト者の心に満ちる「平和」が語られます(ピリピ四・七、コロサイ三
・一五)。その他の書簡では「平和」と「聖さ・敬虔さ」が深い関係にある
ものとして同時に奨励されます(一テサロニケ五・二三、一テモテ二・二、
ヘブル十二・十四、十三・二十、一ペテロ三・十一、二ペテロ三・十四)。
三 平和とキリスト者の社会的証し
私たちにとって「平和」とは、キリストに生きる人生の豊かな賜物と「聖い」
証しの建設です。そして、この「平和」は、私たち自身の心の状態から、家庭、
教会、社会国家の状態まで限りなく広がります。この世界はすべて神の世界
であり、罪は個人だけでなく世界全体の神への反逆であり、世界全体が神の
平和に戻らねばならないからです。
私たちは、その平和をもたらす神の国建設に召された者として、世界の一隅
で主の平和を頂き、平和の御霊によってみ言葉(十戒)の聖い証しを示し、
自分と家庭のみか国家社会にも平和を造り出す器です(ヤコブ三・一八)。
確かに、聖書の「平和」は、単なる政治的平和を表すのではなく、神による
祝福を表す宗教的概念です。しかし単なる個人的、精神的な平安だけでなく、
政治をも包む広い概念です。キリスト者は心の問題だけでなく、社会の平和
のために働く使命があるのです。この世でみ言葉を宣教し、教会を「平和」
として形成し、み恵みにより聖い証しに励んで、まことの平和の王キリスト
への服従の証しを、社会に示すことが、キリスト者すべての任務です。平和
を造り出す器として救われたのですから!
四 沖縄の「シャローム」から!
沖縄は、「シャローム」のない苦しみを味わってきた地です。かつては大東
亜共栄圏の八紘一宇が、そして今はパックス・アメリカーナ(アメリカの平
和)思想が、偽りの「シャローム」であることを身を持って体験した地です。
「戦いの間奏」すらも許されず、世界と本土の敵意がここに吹き溜められて
います。どうか、まことの平和の王キリストの忠実な僕たるべき日本のキリ
スト教会が、沖縄を覚え、キリストの恵みの救いの力の証しとして、み言葉、
特に「十戒」に従って国家社会に聖書の「聖さ」をもたらす戦いをし、「平
和」を造り出す働きができますように。沖縄の「シャローム」(主の平和・
幸せ)が日本の本当の「シャローム」の原点となりますように。そのためには、
まず、み言葉の「くさび」を、この地に深く、実践を伴って打ち込む作業に、
徹さなければなりません。
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