last updated: 11.10.2007
主の晩餐に備えて、イエス様と共に生活をしているかを、吟味したい。
私たちはイエスさまを見たい。たしかに今イエスさまは、よみがえりの身体で、見ることができる。しかし、そのイエスさまの
おられる場所は、遠く天の果てのパラダイスにある神様の栄光のみ座の右におられるので、実際は、見ることができない。終わりの日のご再臨を待つほかない。
しかし、私たちは、今、この地上にあって、イエスさまに、あたかもみ姿を見るがごとくにお会いすることができる。それは、
イエスさまから出るご聖霊が、イエスさまのご臨在と御心とを、みことばを通して私たちの心と耳元に運んでくださるからだ。
だから、2000年前にガリラヤで弟子たちが共に暮らさせていただいたイエスさまとの暮らしが、今も実質的に可能なのだ。
- 私たちの暮らしの中の主(9節)
- 主は、私たちの必ずしも芳しくない職場にも来られる。今も通り過ぎられる。そして、マタイに目を留めら
れたように、罪も混じる仕事中の私たちをごらんにな
る。
- そして「私についてきなさい」と、私たちの心に呼びかけられる。お召しになる。それは、主とご一緒しな
さい、という意味でもある。
- 主の吸引力は強い。人を、何もかも捨てて主に従うために、立ち上がらせる力をお持ちである。主に従わせ
る力を持っておられる。
あなたは、このような主を、あなたの毎日の仕事の中で、覚えているか。
- 私たち罪びとと交わる主(10-11節)
- 主は、ついてきなさいとの召しを受けて従ったマタイの家に、入られた。主はすべて整ってきちんとしてからで
ないと入られないのでない。主は、マタイが召し
に答えて主に従ったとき、様々に罪と汚れとがあってきれいに整っていないマタイの家にも入ってくださった。今も主は、私たちが主についていくとき、私たち
のはしじかで、雑然とした暮らしの場に、入ってきて、共に居てくださる。
- 大勢の収税人と罪びとは、イエスさまについてきていた人々である。イエスさまは、罪びとたちを招かれ、その
人たちと共に座って食事された。イエスさまは、
今も私たちと共に座ってくださり、お交わりをしてくださる。私たちが、正しくなりきよくなってからでなく、いますぐに、主に従う罪びとたちとともに、まる
で仲間のようにお座りくださり、お交わりくださる。
- 世の人は、主は私たちのようないい加減な、きよくない者のところに主が来るはずがないというだろう。主が、
罪びとと一緒にいるなどおかしいと言う。しか
し、主イエスさまは、そのような声を気にされない。主は私たち罪びとの間にとどまられる。
- 私たちを癒し、赦される主(12-13節)
- イエスさまは、あなたが病人であることを示される。あなたが自分が霊的な病人であることを知るまで、あなた
は本当のクリスチャンにはなれない。丈夫な人に
は、医者であるイエスさまは無関係だからだ。イエスさまが必要な私たちは、皆、病人なのだ。今も、イエスさまは、霊においても心においても罪にまみれた病
人である私をいやし、私をゆるし、私を治す、まことの医者として、聖霊により、私のそばに居てくださる。
- 神さまは、儀式のいけにえや律法の行いでなく、憐れみを好まれる。(ホセア6:6)つまり、人が罪を悟り、
自分の無力を知って、心砕かれてみ前にひれ伏す
とき、神さまは、喜んでその憐れみをもってご栄光を表される。今、私たちの叫びを聞いて、喜んで憐れんでくださる、愛の主が、あなたと共に、今もおられ
る。その主イエスさまの憐れみの力が、あなたをいやしていく。罪のあなたを変える。
- イエスさまが、罪びとであるあなたを招くために、あなたのもとに来られることは、今も変わらない。罪びとを
ただ赦して、罪びとのままで放置されるのではな
い。イエスさまは、罪びとを悔改めさせ、心の中から新たにつくり変え、神の国と神の義に生きるようにきよめられる。憐れみの力であなたを本当に罪と滅びと
その呪いから救われるイエスさまが、あなたをこのみ救いに招くために、聖霊によって、日ごろの暮らしの中で、あなたのところにおいでになる。
あなたは、このような主イエスさまの聖霊によるご臨在を、毎日の生活の中で覚えているか。クリスチャンは、キリストを信じキリストとともに生きる人たちの
こと。あなたがクリスチャンであるなら、あなたは日々、みことばを開き、このようなキリストの御霊によって、キリストのご臨在と御心にあってくらすもので
ある。主イエスさまの肉体は今遠くにおられても、みことばもあり、御霊もおられるので、イエスさまご自身は、実質的に私たちの信仰による心の目にはっきり
見え、私たちの信仰の耳にはっきり聞こえる方なのだ。この方と共に毎日を生きるものこそ、クリスチャンである。
改革長老・岡本契約教会
牧師 滝浦 滋
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