「そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。 私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」 神のみことばをあなたがたに話した指導者たちの事を、思い出しなさい。 彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」 (ヘブル人への手紙 13:6−7) 46年間のジーン・W・スピア宣教師夫妻の日本宣教は、確かに、神の 日本への、あわれみによる福音の、みわざの一端を、担うものでした。 改革長老ミッションは北米の小教派の働きではありましたが、南中国と旧満州 で戦前大きな成果を上げ、豊かな宣教経験と確固たる聖書的神学体系を持って、 日本にやってきました。日本での宣教も、原則的に妥協なく進められ、従って 世的な目で見れば、改革長老教会の歩みはゆっくりしたものでしたが、確実に 聖書的改革主義的な、キリスト者として正統的な証しの小さな橋頭保を、神戸 の地から、日本社会の中に築きました。そして、ゆっくりと、19世紀以来の 福音主義で覆われた日本のキリスト教会全体にたいしても、宗教改革原理復興 の影響をおよぼし始めました。スピア宣教師はその中核を半世紀にわたって 担いつづけられたわけです。ですから、その働きの影響は、ご自分は自身の 遣わされた教会に集中して働く方でしたし、あまり外部のために働かないこと を時折反省してもおられたぐらいですが、開拓設立された岡本契約教会、武庫 之荘教会だけでなく、じつに広範に及んでいます。 同じ改革長老教会の中でも、着任当初の鈴蘭台伝道、カベナンター書店での伝 道と書店理事としての奉仕、霞ヶ丘教会の初期の伝道、北鈴蘭台の会堂購入と 晩年の牧会援助、稲野伝道への忍耐深い数年の協力、宗教法人の維持、神戸神 学館の弁証学教授、中国文書伝道日本支部の奉仕、教派の青年達への指導、北 米の改革長老大会議長の奉仕などを通して働かれました。教派外でも、神戸改 革派神学校への協力を中心として、多くの日本キリスト改革派教会の指導者た ちが神学生時代に夏期伝道や通訳翻訳等をきっかけとして交わりを持ち、深い 影響を受けた方も少なくありません。橋本龍三、石井正次郎、榊原康夫牧師な どの名があげられます。岡田稔牧師が、亡くなられる前、武庫之荘に住まれ、 主にスピア宣教師の説教を聞いておられたことは知る人ぞ知る事です。また、 その影響は、日本長老教会や正統長老教会との交わりを通しても広がり、東京 の三鷹福音教会のスミス牧師など多くの牧師が交わりから益を得られました。 ご自身の導かれたものの中から、改革長老教会以外の教会で指導者となった 方々もいます。白川台教会の小紫牧師などもその一人です。神戸キリスト教 書店を創立した藤本兄弟、改革長老北鈴蘭台教会開拓の中心となった岡村兄弟、 改革長老武庫之荘教会開拓の礎となった小林夫妻、武藤姉妹、永井夫妻、アド ベント米子復活教会の中心となっている油井夫妻などは皆、宣教初期中期の 受洗者です。もちろん改革長老岡本契約教会の榎本長老、中村執事とその母上、 吉田姉妹、篠田姉妹、前谷姉妹など中核会員も、その牧会の実りです。 神様がこの器をお用いになったことを完全に把握することは不可能だと感じます。 私も、35年ほど前に、他の教会の長老だった父が英語バイブルクラスに参加 させていただいたことがきっかけで、大学入学までしばらく、引っ越されたば かりの岡本梅の谷の家に通いました。まさかのちに私が先生の後を継いで岡本 契約教会の牧師になるとは考えてもいませんでした。京都の大学生活の後、神 戸改革派神学校に進み、チャペルでの改革長老教会ヘニング牧師のキリスト王 権のメッセージがきっかけで、書店を通しての交わりや一級下の三輪先生との 交わりもあって、改革長老教会の夏期伝道に志願しました。オルガニストで賛 美歌・聖歌(KGKの影響で)に親しんでいた私には、多くの点で違和感が有 りましたが、「キリスト王権」という未知の聖書概念に強く曳かれ、この教会 の改革派信仰の歴史の古さに日本にはまだない本当の長老主義のルーツを感じ た時、私と家内の中に前の教会で育てられていた改革信仰の神中心の原理が、 本当に徹底される可能性を感じたので、人間的には小さくて見通しのない教会 でしたが、講壇から自由に気がねなく聖書を説教できる保障を喜びと感じて、 神学校卒業と同時に協力伝道者となり、翌年に転入して牧師按手を受けました。 そして、前の教会の牧師の紹介で決っていた米国留学の一年の後に、帰国して、 スピア先生の後を継いでこの教会の牧師に就任しました。このように私自身、 スピア宣教師を通して決定的な神様の奉仕への導きを受けた一人です。 日本における改革長老ミッションにおいて、日本の文化と言語との福音に立つ 葛藤は、常に有りました。しかし、ひるんで、神の律法(たとえば十戒)への 福音的な積極的従順の探究の旗印を降ろすことはなく、むしろ具体的な安息日 や反祖先崇拝焼香などの闘いでキリスト者としての旗色鮮明を確保する企てを やめませんでした。その中心にスピア宣教師が、46年間、常におられました。 その質素な暮らしと忠実な説教・牧会によって、常に日本人と共に歩まれるこ とに献身しながら、何を言われても、どんな扱いをされても聖書の求める筋を 通しつづけるために心と身体を張りつづけられたのです。先生の健康が最後ま で守られたことはある意味で奇跡的なことです。私にでも誰にでも、実に細や かな配慮をなさりつつ、決して遠慮せずグサリと具体的な間違いや弱さをつか れる真実な真剣勝負が先生夫妻の本領です。こちらにも御霊の下さる信仰の真 の謙遜が与えられないと受けきれないような時もありました。しかし、その具 体な迫りが回心にとっても献身にとっても必要な悔改めに私たちを導いたと思 います。それを生み出す精神的エネルギーの圧力に46年間耐えられたのです。 さらに積極的に、この国の社会的政治的権威にたいし、教会とキリスト者の 聖書に立つ信仰とその良心的行動の自由を主張することがわたしたちの幻です。 この国でクリスチャンであることを単に許容してもらう事をめざすのでなく、 この国の社会の規準を、聖書の救いの力と倫理によりキリストの王権の下に服 するようにクリスチャンの実行力で変革していくことまで目指す教会の証しの 幻をスピア先生は持っておられました。「先生の主イエスさまのイメージは」と 聞いたことがあります。すると、黙示録1章だと言われました。それは圧倒的 な勝利の王の現在の日本の教会と社会への御臨在の自覚です。先生は世界的な 聖書弁証学者のバンティルのもとで学んだ弟子として、弁証的な論理を駆使し つつ、キリストの国を現在の社会にたいして証しする説教をされました。 また、「一番むづかしい十戒は」と問うた時には、むさぼりだといわれました。 それは最も深い偶像礼拝に繋がっています。先生は共産主義の欺瞞と共に、 ヒューマニズムのまやかし、そして日本の神道ナショナリズムの危険を自覚 され、私たちが強くそれと対決する姿勢をとるときには必ず支持して下さい ました。日本社会での堕胎について晩年警告され続けました。アルコールや ギャンブルを離れる生活、クリスチャン同志の結婚、キリスト画像の排除など、 いつも具体的に一歩一歩真実に、主にある聖潔を実際的に追求されました。 スピア先生が去られてまず感じていることは、教会の教えと歩みを安定させる 重みのあるスタビライザー(重り・安定板)を失ったと言う危機感です。 神さまがどうか残った私たちを、聖書の福音信仰と、聖書の掟への忠実さに 成長させてくださって、キリスト教会がどの時代にも直面するさまざまな波に、 私達の教会の土台が揺るぐことがないように、保ってくださいますように。 先生が最後のパーティーの挨拶で、「神戸神学館を支えるように」ということ と、「祈るように」と言うことの二つを、残す言葉として訴えてくださった ことは、あらためてこの点で、実に深い、祈りが込められた言葉だと思います。 教会の聖書的で正統な証しの実戦を、犠牲を覚悟でめざし、みずからを教会が 社会や時代に流されないための碇とし、教会の聖書的教理と聖書的生活実践が 揺るがないための重りとなる器が、神戸神学館から、また各教会の祈りの戦い の中から献身して出てくることが、先生の最後の言葉の願いだとおもいます。 (2テモテ2:3−4) 救われたのになお自分の弱さの中にかたくなにこもろうとし、スピア先生の ような指導者にぶら下がるばかりで、回りに流されるまま揺るがされるままの、 自分にはまったく甘い私たちではないでしょうか。せっかく救われた恵みに お応えしたいと願うなら、その様な姿を卒業するように祈り求めるべきです。 そして、揺れる側から揺れを押さえる側へ、波から防波堤へを目指し、スピア 先生と共に教会のための礎石・重しとなるべく自分を捧げるとき、私達の人生 を通して、主イエスさまの救いへの感謝の応答が本当に始まるのです。その ような戦友となる、それがスピア先生への本当の恩返しではないでしょうか。 (1ペテロ2:5) 「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちの事を、思い出しなさい。 彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。イエス・キリストは、 昨日も今日も、いつまでも、同じです」(ヘブル13:7−8) 「この人々は神に弁明する者であって、あなたがたの魂のために見張りを しているのです。」(ヘブル13:17) |