ダニエルの物語は子供たちでも良く知っていますが、いったいどんな本なのでしょうか。
ダニエル書の後半は「預言」が主な内容です。しかし、旧約聖書正典では、「預言書」
に属していません。むしろ「諸文書」におかれました。それはなぜでしょうか。
旧約聖書の基本構成は次の三つです。「律法」は神の救いの「契約」の構造を語ります。
「預言書」は契約を「歴史」にあてはめるものです。契約違反への神の「裁き」と契約
に基づく「救い主」の預言です。「諸文書」は契約に生きる「生活」を具体的に教え
ます。ダニエル書の預言も、このような聖書の基本メッセ−ジ、神の救いの「契約」に
もちろん基づくもので、救い主の、世界歴史への出現が描かれています。しかしダニエ
ル書の主眼点は「預言書」のような契約に基づく神の計画の預言よりむしろ、実際面、
つまり、信仰者の生活の背景である世界の歴史の動きにあります。歴史に神の契約にも
とづいて何が起こるのか。歴史上に、事実、見えざる神の御座の支配がくる。キリストが
この世界の王として支配される。このように積極的に信仰から「世」を見る実際的視点が
ダニエル書です。ダニエル書は、具体的に信仰を生きるための「諸文書」なのです。
旧約は新約の教えの説き明かしの宝庫ですが(たとえばヨブ記=義など)ダニエル書
は「世での証し」の書です。
ダニエル書の前半は、「世」で証しした人々の記録です。信仰によって飽食を拒否し主の
恵みによって生きることを証しした若者たち。主のみを礼拝する堅い決意から王の偶像
への礼拝を拒否して守られた三人。どんな状況でも変わらず主を礼拝し続けて勝利した
ダニエル。みな、信仰のあかしの例です。また、その証しを異教の国でも支えて下さる
神の全能の力とさばきが、様々なできごとで証しされています。
ダニエル書の後半は、捕囚からキリスト到来までの「世」の歴史の旧約で最も具体的な
預言が幾重にも折り重なっています。高等学校の世界史歴史年表が直接役に立つのは、
ダニエル書ならではです。受験勉強でダニエル書と年表の対比に時を忘れたのを思い出
します。ダニエル書には「世」があります。エステル記は神の御名がひとつもでてこな
いのに、鮮明に神の証しが語られている書で、御名が聞こえない「世」でも、主が力強
く証しされることを示しています。ダニエル書も、神を知らぬ「世」である新バビロニア
やアケメネス朝ペルシャのなかで、主の力づよい支配と、信仰者の恵みにる証しを示し
ます。そして、バビロン滅亡、ペルシャ帝国、ペルシャ戦争、アレクサンダ−大王、
その部下による世界分割、ロ−マ勃興と、「世」の歴史の動きが預言され、この「世」
の歴史に「人の子」なる王が天から到来されることが明確に描かれます。(7章キリスト
到来までの歴史概括、8章ペルシャ戦争とアレキサンダ−帝国、9章ダニエルの悔改めの
祈りと終末鳥瞰、10〜11章アレキサンダ−帝国分裂後の戦乱と反キリストの型である
アンティオコス・エピファネス到来、12章大いなる君の到来・復活・永遠の命・神の
民の栄光:初臨再臨の幻が重複)ダニエル書は、私たちが生きている今の世界歴史で、
キリストが現実に王であられ支配されている事実認識、神の国が進展している自覚を、
はっきりもたせる書であり、信仰生活の社会的歴史的前提であるキリスト支配の現実を
具体的に悟らせる書なのです。わたしたちは日本で、当然のように神なき「世」を動かし
難いものと感じてしまいます。日本人は、自然と人を神と称し偶像化して日本を
「神の国」などといいますが、まことの神を認めず神の現臨を嘲る国です。私たちも
すっかり洗脳され世的にしかものを見ません。その諦め自体が聖書と正面からぶつかる
不信仰だということさえ気が付きません。キリストが王として支配されることを、一つの
「お話」としてしかとれません。信仰はこの「世」で生きる自分の助けになれば良い、
と言うだけです。しかしそれはキリスト教の真理ではありません。福音の本質が否定
されたままです。福音の本質はこの世界がキリストのものだと言う事実です。イエスは
主であるという事実です。その事実とその証しに生きることを、ダニエル書は明確に訴
えます。私たちが罪から救われたのは、キリストが主であるというこの事実を証して
生きるためです。人間から見て福音の本質は信仰による罪からの救いですが、聖書の
神ご自身の視点からは、本質は王なるキリストによる神の国の実現です。
ハイライトは、7:13〜14でしょう。ダニエルが見た幻です。バビロン、ペルシャ、
アレキサンダ−帝国、そしてロ−マの獣の出現の後に、ロ−マに反キリストの角が現れ、
その時、神の御座が現れれます。そしてダニエルは幻を見ます。「見よ。人の子のような
方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。」この幻の
解釈は直後に書いてあり明白です。ロ−マの時代にキリストを王とする神の国が実現
するのです。獣が「いと高き方の聖徒を滅ぼし尽くそうとする」とあるように迫害が
起こります。けれども、結局、「国と主権と天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒
である民に与えられる。その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する」
のです。この預言は、主イエス・キリストの復活・昇天・着座により、天でキリスト
の勝利が確定し、その王権執行が始まった事実(黙示録12章)のことです。今、
キリストがよみがえりの肉体のままで天の御座から王として支配を始めておられることは
疑う余地がありません。主がそこから聖霊をお遣わしくだり私たちにも回心の恵みが
与えられました。この主の王権支配の現実を歴史に即して教えているのが、ダニエル書の
この箇所です。このキリストの王権は終末の再臨の日、目に見える事実として世に実現
します。「この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語のものたちがこと
ごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、
その国は滅びることがない。」今すでにその復活のキリストのみ国の力が間違いなく日本
の私たちにも働いています。私たちはクリスチャンなので、日本国民である前にこの王国
に仕えます。これが個人の人生でも教会の在り方でも日本社会との関わりでも私たちの
基本です。このようにキリストを現実の生活で王と認めて仕えることから、神の救の
契約への応答が始まるのであり、それが人生にまことの意味と目的、まことの確信と
祝福を生むものなのです。日本の国でも、二つの宗教改革標語、「キリストが救う」と
「キリストが君臨する」が共に確立されますように。