カルビン 草稿
瀧浦 滋
私は幼い日から長老系教会に育って、繰り返してカルバンの言葉も聞いてきたので、カ
ルバンが資本主義の元凶であるとか、傲慢冷徹な律法主義者だったというような俗説は
的はずれだと分かっていた。彼の聖書解釈の深さや、福音理解の堅実さと広さ、神学の
味わいの深さはいつも決して期待を裏切らなかったから、彼がすぐれた真の神学者であ
り聖書解釈者であることも分かっていた。何より彼が真実なキリスト者であることは明
白だった。私はそれでも、個人としてカルバンを敬愛する心にはどうしたらなれるのだ
ろうと、長年思っていた。どうも、彼の語り口には、翻訳ということもあるだろうがな
じみにくかった。
カルバンの信仰の特徴を、「聖書信仰」と言うのは当然で重要な点だがあたりまえすぎ
る。「神中心」とか「神の栄光のために」と言うと確かに中心ポイントをついてふさわ
しいが、例えばキリストの救いについての彼の信仰の主観面を何か言い残しているよう
な気がする。「聖霊の神学」というとこれは後世の評論になる。「教会形成と礼拝改革
と社会生活訓練」というと正直だが総花的表現になる。「体系的教理の組織化」では本
当だが内容が表現されない。「信仰に立つ積極的世界観人生観としての信仰」というと
き、近年ではキリスト者生活の喜びと娯楽の側面を強調する論もみられるが彼の有する
霊的な重さを捕らえ切れている表現だろうか。これらすべては正しくカルバンの信仰の
特徴をあらわしてはいるが、これらすべての特徴点の基礎となった彼の信仰体系の原点
とは何なのだろう。
私が個人的にカルバンに心服するきっかけは、まずジュネ−ブ教会問答書で彼の牧会の
心に触れたことである。そこで彼は、聖書の教理を教えるのに、自分自身の深い罪意識
の体験に裏付けられて、罪人の心理を見抜いて逃げ場がまったくないように論述するか
と思えば、片方で信徒の弱さに実に深い配慮を示す表現を尽くしている。すべて彼の深
い罪の自覚から出てくるものだ。彼の神中心は、自らの罪の深い自覚のゆえなのであり、
彼の「恵みのみ信仰のみ」も、自分の罪を知るゆえ、無力の深い自覚のゆえなのだと
わかる。
私にはこのカルバンの心、すなわち「低さ」または神の前の「謙遜」こそ、聖霊が彼に
与えられた彼の心髄であり原点だと思える。ここから、彼のすべての特徴と力が出てく
る。
カルバン主義者の真価は(私自身まことに相応しくないものだが)真に「謙遜」である
かどうかで問われると言えると思う。歴史的に様々な改革主義長老主義者が登場したが、
真実にカルバンを継いだものに皆共通したのは、この真の「謙遜」である。もちろん
人の目へのポ−ズではない。単なる敬虔主義的な主観的コラム・デオ(主の御前)でも
ない。神の前の単なる形而上的な小ささの自覚でない。「罪人」としての神学的かつ実
践的な謙遜である。神の御心(十戒)に照らされた罪意識としてのコラム・デオである。
カルバン主義者はその良心を(み言葉、すなわち恵みの契約への応答の招きである)
律法(十戒)にはっきり照らされ、神への恐れと自分の罪ゆえにおののきへりくだるま
では本物ではない。
このカルバンらしさは、ノックスなどの国家への証しを支えた「戦闘的謙遜」で証され
る。スコットランドの宗教改革者らの戦いの鎧の中の心が、いかに福音的で柔らかかっ
たかは、殉教者達の伝記と語録が雄弁に物語っている。恵みに立つ罪との戦いが証しの
実態なのだ。
わたしは、この謙遜をカルバンの心髄として理解して以来、綱要のすべてのペ−ジに散
在する彼の謙遜を吐露する表現を心から感じることができるようになり、彼の神学体系
と真に一体となれるようになったと感じている。特にこの事を感じたのは、エペソ書の
説教を読んでいたときである。私はこの連続説教でカルバンに何度も慰められ、共感し、
涙を持って読んだ。それは彼の真の罪の悔い改めの心に触れたときであり、彼の知った
神の恵みの豊かさに、罪人の私の心が共振したときである。カルバンの体系の秘密の鍵
はまさにここにある。それは、すべての真のキリスト者に共通の悔い改めと回心の体験
の、最も純化された表現である。
(Banner of Truth社版 John Calvin's Sermons on Ephesians)
あの「恵みにより信仰によって救われた」とパウロが宣言するエペソ3:8の聖句を説
教して、カルバンは、まず、私たちの救いのために神がいたもうと考えるのは逆であっ
て、「私たちの救いこそが神の無限の栄光を見るまことの鏡である」という。「私たち
の内に見出だされうる何かのゆえでなく、神の純粋な恵みを満たすために私たちは選ば
れた」という。「たとえ私たちが何者であり、どんな良いものを持っているにしても、
すべてまったく神からの無償の恵みとして持っているのだということを告白するのであ
って、私たちは文字通り塵の中に平伏させられる」という。「人間が思い描けるかぎり
のあらゆる善も徳も一切排除して、初めて十分だ」、「信仰とは、人間自身の功績につ
いてのすべての思い込みを打ち倒し廃絶するものだ」、「私たちは皆罪に定められてい
る者だからこそ、信仰が行いの位置を補う」と述べる。「我々は皆神の前に呪われたも
のなので、ただ神の善意に救いを求めねばならない」、「私たちが福音の中に提供され
ている恵みを信仰によって受け入れるとき、私たちはイエス・キリストの必要を告白す
るのであって、それは私たちの内には地獄のほか何もないからだ」、「神と人間が対比
されるとき、私たちは素っ裸にされないわけにはいかないのであって、神が私たちを恵
みのうちにお受入れ下さるまでは、私たちの内には恥と赤面以外にはなにもないのだ」、
「神が聖霊の力によって私たちを再び新たに生かして下さるまで、私たちは腐った死体
のようなものなのに、一体私たちに何ができるというのか」、「腐敗以外には何もない
のだから、私たちが自分の内に良きことを一滴でも持つためには、神が私たちを作り
替えねばならない」「パウロがここで神を人間に対して対立させていることは確かであ
る」「神ご自身の権利を擁護するとき、私たちが精一杯持ち出すもので、最も私たち自
身の所有のように見えることでさえも、すべては煙と立ち上ぼって消え去るのである。」
このように、カルバンの私たち人間の「低さ」についての徹底したストレ−トな表現こ
そ、私たちの心を神の前にみ言葉によって裸にし真実にして、神中心の恵みの慰めに導
くのだ。
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