Apr. 02, 2006

教会の中にたっておられる主イエス・キリストについて
(一教会員への手紙)


主にありて

信仰生活は、必ず祝福です。

まことの神様の道ですから当たり前ですが、この地上の旅路は様々 な理由で試練が置かれているので、いつも必ず信仰生活が祝福となることを、 たえず見つめていかねばなりません。

特に私たちが教会生活をしていくことは、信仰の道場のようなものである教会に、罪びとである私たち自身が、お互いにきよめられるために、置かれているとい うことです。

4月2日の安息日、岡本では黙示録の講解を始めましたが、1章で、教会の中に立ちたもうイエス・キリストの見えないみ姿を、黙示で見せていただきました。

キリストが、永遠の方として、私たちを聖めずにおかない燃えるまなざしをもって、揺るがずかたく立っておられます。すべてを揺り動かす力のみ言葉を発しつ つ、目に見えないみ使いたちや目に見える働き人を掌握して支えさせて、鋭いみ言葉をもって人々の心をえぐり、ご栄光をもってすべてを圧倒していかれます。

かつてスピア先生に先生に思い描かれるキリストの姿をご質問したとき、この黙示録1章の圧倒的なキリストだ、と言われました。

それがようやく理解できる気がします。

この恐ろしいほどの栄光と権威に満ちた方が、見えざる姿で教会のなかに立っておられることは事実です。

それを様々なときにみ言葉から聞き、またいろいろな機会に学びますが、キリストのご臨在のこのようなリアリティーを、この黙示録1章で、私たちは一挙に目 の当たりにします。

しかも、実になんとその方が、私たちの上にご自身の右の手を優しくお置きくださって、「恐れるな」と言っておられます。

「私は生きている者である。私は一度死んだが、見よとこしえに生きている。」と。死とハデスの門を打ち開いて、私たちをとこしえの命へ救い出す鍵を持って おられると、宣言してくださいます。

主は、私たち教会を滅ぼすためではなく、愛するために立っておられます。

私たちを、罪と死から救い、キリストのしみも傷もない花嫁となるようにきよめようとして、立っておられるのです。

地上の教会は、どんな試練にあっても、そのようなキリストがそこに立ってくださっている、私たちのための信仰と聖化の道場なのです。

ご家庭への主の導きと祝福を祈ります。

瀧浦 滋