「権威と服従―近代日本におけるロマ書13章
―」 宮田光雄著 新教出版社 書評 ニューヨークを出たアムトラックの列車、ボスト ン行きアセラ特急は、 春の雪の中コネチカット州の林や沼、海と岸、黒い屋根と白い壁の家々の間を走って、エール大学の町、ジョナサン・エドワーズでも有名なニューヘブンの停車 場に着いた。この本に出てくる、日本でプロテスタント教会の基礎を築いた宣教師たちのうち二人、新島の友人で仙台伝道のJ.H.デフォレストと同志社の ラーネッドがこの街で学んだのだ。 その二人がそれぞれ書き、初期の日本のプロテス タント教会で広く信仰訓練の基礎となった十戒解説書やロマ書註解のことばの引用から本書の歴史的論述が始 まっている。そこを読むと、日本の教会は大切なものを十分学ばないでそれてしまったのだということをひしひしと感じる。あまりにも未熟なままの自立の誤り である。それが、今でも繰り返されていないか。 当時は、文明開化への反動と、自由主義神学が結 局、日本の教会をつぶした。日本流のキリスト教も、自由主義も全然まともでなかった。とにかく、はじめに二 人が目指したような、聖書のまっとうな正統主義の信仰が、遅ればせながらでも日本に根付かねばならない。 日本近代プロテスタント教会史は政教一致の神政 国家のもとでの苦悩の歴史に他ならない。この評価が教会の常識となり、聖書に照らして教会として悔改めがな されねばならない。この本は、ロマ書13章冒頭の読まれ方を軸に、克明に資料によって、その歴史を描き出している。聖書がどのようにゆがめられたかが、警 告される。この分野の必読の本(隅谷三喜男・丸山真男など)となる。 教会に、学校に、図書館に置かれ、多くの層の人がこの書によって、問題の歴史的事実であることを深刻に認識することが、日本にとって必要だ。 だがこの本にははっきり限界がある。特に序章や バルトの評価は神学的に偏った見方を示している。聖書信仰に立つ読者は気をつけなければならない。正統的プ ロテスタントについての理解が新正統主義に偏っていて、論議の限界をもたらしている。 「教会と国家」のテーマを扱いながら、ジョン・ ノックスの名前はでるものの、後のA.A.ホッジやW.サイミントンなどに代表的な、キリストの仲保者的王 権論(神学的に神としての王権と区別され、レグヌムグラチアェ及びポテンティアェに分離される)がまったく言及されないということは、英米系の神学からの 視点がこの書には実質的にないということだ。初期宣教師の神学の背景が触れられない。聖書における「契約と王権」の基本的枠組み、そして「メシヤが教会と 国家に君臨」される「権威」の構造を理解せずに、「教会と国家」を聖書から体系的に見る視野は開けない。本当の教会論の基礎は、キリストの王権理解から出 るもので、権威の問題として国家との関係を神学的にはっきりさせてはじめて、論を始める枠組みができるのである。そこに立てば、新正統主義にもゆがみが見 えてくるはずだがバルト礼賛で終わっている。この書の限界である。 また、ロマ書13章の解釈を釈義神学的にはっき り示すものでない。ロマ書13章の解釈原理をこの書に期待すべきでない。この分野には英米に無数の著作があ るが、ドイツ新正統主義以外の主要な改革・長老主義の神学の流れをファンダメンタリスト等と切り捨てる高倉から熊野へと続いた教団・東神大系の偏見は本当 に困ったものだ。戦時中に満州の神学校の宣教師(プリンストンの聖書神学者ゲルハルダス・ボスの子息)が、日本の宗教政策について、カベナンターの教会国 家論の立場から直接ロマ13章を分析した論文が、ウエストミンスター神学校雑誌に載っているが、言及されない。 しかし、近代日本教会史をロマ13章というナイ フで骨まで切り裂き、克明な資料で示してくださった労作の価値が、それで変わるわけでない。著者の立場は別 にして、かけがえのない歴史情報を感謝しつつ、引き込まれて一気に読み終えた。 列車のついたボストンで、友人から聞いたのだ が、先の日曜日にハーバード大学と隣接する彼の改革長老教会で、一老牧師が、十戒の第二戒の説教をされたそう だ。その説教の内容が、「人間が神様の形(イメージ)であること」から説き起こして、「偶像(イメージ)礼拝」の問題と欺瞞を深くえぐるものであったとい うことだ。まさにこの書の冒頭にある、長老教会の宣教師ノックスが明治初期に日本のキリスト者に教えたことと同じことが、ニューイングランド・ピューリ タン正統主義の中では、今も説教されている。 日本でも、福音主義のさまざまな展開をあせる前 に、そのような基礎的な正統的信仰が,教会の基礎として、まずどこででも語り続けられねばならなかったので はないか。 2004/03/09 改革長老教会日本中会 岡本契約教会牧師 |